中国からの漂着 ①

宝暦3年(1753)12月10日、八丈島の南岸大賀郷おおかごう(現在の東京都八丈町大賀郷)への唐船漂着

16 巡海録

請求番号185-0239
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 船主2名は言葉が通じないため、筆談で会話し、信牌しんぱい(長崎への入港許可証)を役人へ提示し、長崎へ向かう途中に漂着した事、荷物には江戸御用の品もあると述べました。
 島役人は荷物も荷揚げし、乗組員71名全員を上陸させました。漂着者たちへは食料を供給し生活を保証しました。
 「巡海録」には、漂着船の積荷目録が記載されています。その中でも白糖と氷糖が大量に積載されていたのがうかがえます。「和合丸」「大杉丸」とは、漂着船の積荷や漂流民を長崎へ運ぶための日本船の名称。画像の2枚目は漂着した清国人の図、3枚目は漂着した船の図です。

17 漂着唐船細故

請求番号185-0246
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 「漂着唐船細故」には、唐船が漂着した12月10日から翌年閏2月30日までに荷物の引き揚げや搬送にかかった人足や漁船、牛の数が記録されています。
 八丈島は伊豆下田代官の支配下にあったため、海が穏やかになった翌宝暦4年3月に、代官宛の報告書を送付し指示を仰いだところ下田へ移すようにとの命令を受けます。7月1日に下田で代官及び浦賀番所役人による人数や荷物点検が行われ、同月6日に下田を出港し、8月17日に長崎へ到着しました。