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[請求番号 211-0117]

耳嚢(みみぶくろ)

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著名な町奉行(江戸町奉行)と言えば、大岡越前守忠相(ただすけ)(1677-1751)と遠山左衛門尉景元(かげもと)(1793-1855)の名がまず挙げられますが、根岸肥前守鎮衛(ねぎし・やすもり 通称は九カ左衛門。1737-1815)もまた、下情に通じた洒脱な人柄とすぐれた手腕で評判の高い町奉行でした。

根岸鎮衛は旗本安生定洪(あんじょう・さだひろ)の3男として生まれ、同じく旗本の根岸衛規(ねぎし・もりのり)の臨終に際して同人の養子となり(末期養子)、宝暦8年(1758)に、22歳で衛規の遺跡(150俵)を相続。その後、勘定、勘定吟味役、佐渡奉行、勘定奉行と異例の出世を遂げ、寛政10年(1798)に62歳で町奉行を拝命しました。文化12年(1815)6月に500石を加増されたのち(計1,000石)、11月(12月とも)に79歳で没しています。

めざましい出世を遂げたこともあって、鎮衛の前身については、雪隠大工(せっちんだいく)(下等な大工の意)であったとか、腕に刺青があるのを隠しているとか、さまざまな噂がささやかれましたが、いずれも確かな根拠はありません。鎮衛の妻は、大坂蔵奉行などを務めた旗本桑原盛利(もりとし)の女「たか」。『官府御沙汰略記』(→展示資料44)の著者、小野直方の孫のひとりです。

『耳嚢』は、鎮衛が佐渡奉行時代(1784-87)に筆を起こし、死の前年の文化11年(1814)まで、約30年にわたって書きためた全10巻の雑話集。公務の暇に書きとめた来訪者や古老の興味深い話を編集したもので、さまざまな怪談奇譚や武士や庶民の逸事などが多数収録されています。


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