第2章 近世の交流
朱印船貿易
16世紀後半、海禁政策がとられていた中国(明)に代わる貿易相手を東南アジアに求めた日本では、倭寇や密貿易と区別するため、幕府等の権威者が許可した正式な貿易船であることを示す「朱印状」を携え、貿易を行うようになりました。このような朱印船は、安南、交趾等と呼ばれたベトナム地域をはじめ、呂宋(フィリピン)や暹羅(タイ)などの東南アジア諸地域に対し、日本の銀、銅、硫黄、刀剣などと引き換えに、生糸、絹織物、綿布などを持ち帰りました。朱印船制度が確立したとされる1604年から鎖国にいたる1639年までの間に、のべ350隻を超える船が東南アジアを目指し、うち、ベトナム地域への渡航は130回を数えました。国際貿易港として栄えていた安南(中部ベトナム)のホイアン(会安)は、同地域を支配していた広南阮氏の拠点・フエの外港であり、やがて日本人町も形成されました。1635年、徳川幕府により日本人の海外渡航が禁止されて以降、朱印船貿易は途絶えますが、ホイアンの日本人町にはその後数十年にわたって、日本人が住んでいたと伝えられます。
ここでは、こうした朱印船貿易や日本人町・ホイアンに関する資料を紹介します。
ここでは、こうした朱印船貿易や日本人町・ホイアンに関する資料を紹介します。
1 外蕃書翰:「安南国大都統瑞国公奉複書(弘定7年5月)」
「外蕃書翰」は、江戸時代の外交関係資料集「外蕃通書」を編纂するための参考図録として、長崎奉行所の役人だった近藤重蔵(1771~1829)によって作成されたものです(完成は文政元年[1818])。全2帖。紅葉山文庫旧蔵。
15世紀に入って、北部ベトナムは一時明の支配を受けましたが、独立を回復すると、黎朝が成立します。しかし、16世紀中ごろに生じた政変をきっかけとして、黎朝廷は権威を失い、ハノイ周辺を中心とした北部では鄭氏が、フエを中心とした中部では阮氏(広南阮氏)が、それぞれ実権を握るようになりました。ここに紹介する「安南国大都統瑞国公奉複書」は、弘定7年(1604)に、広南阮氏の阮潢(1525~1613)から徳川家康に宛てた奉書を忠実に複写したものです。
徳川幕府と安南国(ベトナム)との書簡の往来は、慶長6年(1601)~寛永9年(1632)の間に、幕府側から15通、安南国側から19通にのぼり、幕府がアジア地域で最も多く書簡を交わした相手の一つとなっています。
15世紀に入って、北部ベトナムは一時明の支配を受けましたが、独立を回復すると、黎朝が成立します。しかし、16世紀中ごろに生じた政変をきっかけとして、黎朝廷は権威を失い、ハノイ周辺を中心とした北部では鄭氏が、フエを中心とした中部では阮氏(広南阮氏)が、それぞれ実権を握るようになりました。ここに紹介する「安南国大都統瑞国公奉複書」は、弘定7年(1604)に、広南阮氏の阮潢(1525~1613)から徳川家康に宛てた奉書を忠実に複写したものです。
徳川幕府と安南国(ベトナム)との書簡の往来は、慶長6年(1601)~寛永9年(1632)の間に、幕府側から15通、安南国側から19通にのぼり、幕府がアジア地域で最も多く書簡を交わした相手の一つとなっています。
国立公文書館
184-0376 冊次:2
2 外蕃書翰:「自長崎到安南国船図」
資料1と同じく、「外蕃書翰」に所収される絵図です。
船図は、長崎を拠点として、安南(ベトナム)や暹羅(タイ)との貿易で活躍した荒木宗太郎の船を描いたものです。船首にある船旗はV.O.Cの3字を組み合わせたオランダ東インド会社の社紋を上下逆にしたもので、航海中にオランダ船等からの妨害を受けないためだったともいわれています。朱印船貿易で東南アジアと日本を行き来した船がどのようなものであったかは不明な点が多いものの、船体は中国船のジャンク式をベースとしながらも、舵や船尾は西洋式、上部構造や船首は日本式といった折衷式を取っていたとされ、本図はそうした当時の朱印船を表す貴重な資料となっています。
船図は、長崎を拠点として、安南(ベトナム)や暹羅(タイ)との貿易で活躍した荒木宗太郎の船を描いたものです。船首にある船旗はV.O.Cの3字を組み合わせたオランダ東インド会社の社紋を上下逆にしたもので、航海中にオランダ船等からの妨害を受けないためだったともいわれています。朱印船貿易で東南アジアと日本を行き来した船がどのようなものであったかは不明な点が多いものの、船体は中国船のジャンク式をベースとしながらも、舵や船尾は西洋式、上部構造や船首は日本式といった折衷式を取っていたとされ、本図はそうした当時の朱印船を表す貴重な資料となっています。
国立公文書館
184-0376 冊次:1
3 阮朝木版 (H28/3)
木版(Mộc bản)は、漢字もしくは字喃(チュノム、ベトナム語を表記するために漢字を応用して作られた文字)を板に彫り込んで作られたもので、阮朝期に印刷技術として普及していました。阮朝期の木版コレクションは、ベトナム史における封建的諸王朝の下での各地の社会的状況を反映する、様々な情報にあふれています。1960年にベトナム中南部ラムドン省の省都・ダラットに移されるまでは、フエで保存されていました。1975年からは、ベトナム国家記録アーカイブズ総局傘下の国立第4アーカイブズ・センター(ダラットに所在)が、34,618に及ぶ木版(ページ数にして55,318ページ)を保管することになりました。2009年、その地域的・国際的な価値に基づき、UNESCOの「世界の記憶」に登録されました。『大南寔録』、『大南一統志』、『欽定越史通鑑綱目』など、多くのベトナムの歴史的書物が、木版コレクションの中に含めれています。
明命帝2年(1821)から維新帝3年(1909)にかけて(阮朝の)歴史編纂所が編さんした『大南寔録』は、阮朝におけるもっとも重要な歴史書です。二部構成となっており、1821年に編さんを開始し1884年に完成した第一部(大南寔録前編)には、9代にわたる広南阮氏の支配者に関する情報が記されています。
ここに紹介する『大南寔録前編』第2巻第4ページには、広南阮氏の支配者・阮福源(資料1で紹介した阮潢の息子)の命により、日本の貿易船から、1617年に赤銅を購入したとの記述が見えます。「トゥアンクアン地域には銅鉱がないため、地方政府は、福建、広東や日本からの貿易船が持ち込む赤銅を、1キログラムあたり銭40~50束の価格で購入せよ」とあります。
明命帝2年(1821)から維新帝3年(1909)にかけて(阮朝の)歴史編纂所が編さんした『大南寔録』は、阮朝におけるもっとも重要な歴史書です。二部構成となっており、1821年に編さんを開始し1884年に完成した第一部(大南寔録前編)には、9代にわたる広南阮氏の支配者に関する情報が記されています。
ここに紹介する『大南寔録前編』第2巻第4ページには、広南阮氏の支配者・阮福源(資料1で紹介した阮潢の息子)の命により、日本の貿易船から、1617年に赤銅を購入したとの記述が見えます。「トゥアンクアン地域には銅鉱がないため、地方政府は、福建、広東や日本からの貿易船が持ち込む赤銅を、1キログラムあたり銭40~50束の価格で購入せよ」とあります。
国立第4アーカイブズ・センター
H28/3
4 視聴草:異国へ通商の御朱印写
幕臣の宮崎成身が、文政13年(1830)頃から30年以上にわたって、手もとにある資料や記録から作成した170冊に及ぶ雑録(収録された資料は1800点以上)です。ここで紹介する資料は、成身の直筆による稿本です。
「異国へ通商の御朱印写」には、朱印船貿易で活躍した長崎の商人・荒木宗太郎の子孫に伝わる荒木家の来歴や、三代目伊太郎の時に返納されたという朱印状の写しなどが収録されています。そこには、荒木宗太郎は安南に渡航し、当地を治めていた広南阮氏の信頼を得たこと、「囲碁の賭けにことよせて」阮氏の娘を妻に迎え、日本に連れ帰ったこと、宗太郎との間には一人娘が生まれ、その婿が2代目となり荒木家を継いだことなどが記されています。
阮氏の公女は長崎で「アニオーさん」と呼ばれ親しまれたといいます。国の重要無形民俗文化財である長崎くんち(長崎諏訪神社の祭礼)には、宗太郎が広南阮氏の娘を連れ帰った時の様子を再現したとされる「アニオーさん」と呼ばれる山車がありますが、「アニオー」は妻が夫を呼ぶ際のベトナム語「アィンオーイ」の転訛ではないかと言われています。
「異国へ通商の御朱印写」には、朱印船貿易で活躍した長崎の商人・荒木宗太郎の子孫に伝わる荒木家の来歴や、三代目伊太郎の時に返納されたという朱印状の写しなどが収録されています。そこには、荒木宗太郎は安南に渡航し、当地を治めていた広南阮氏の信頼を得たこと、「囲碁の賭けにことよせて」阮氏の娘を妻に迎え、日本に連れ帰ったこと、宗太郎との間には一人娘が生まれ、その婿が2代目となり荒木家を継いだことなどが記されています。
阮氏の公女は長崎で「アニオーさん」と呼ばれ親しまれたといいます。国の重要無形民俗文化財である長崎くんち(長崎諏訪神社の祭礼)には、宗太郎が広南阮氏の娘を連れ帰った時の様子を再現したとされる「アニオーさん」と呼ばれる山車がありますが、「アニオー」は妻が夫を呼ぶ際のベトナム語「アィンオーイ」の転訛ではないかと言われています。
国立公文書館
217-0034 冊次:53
5 屋根で覆われたホイアンの橋(来遠橋もしくは日本橋)
ホイアン旧市街を流れる小さな川に、18メートルほどの橋が架かっています。その橋の中ほどには祠が設けられており、そのことから「Chùa Cầu」(寺の橋)と呼ばれています。また、この橋はもともと17世紀に、日本人貿易商たちによって建立されたと伝えられており、地元の人々から「日本橋」と呼ばれています。祠の入口には、「来遠橋」の3文字を記した扁額が掲げられています。その語源は論語の「友あり遠方より来る」からの引用であり、「遠方から到来した友の橋」の意味が込められています。広南阮氏の支配者・阮福淍が1719年にホイアンを訪れた際に、この名称を贈りました。日本人の設計になるユニークな存在とみなされています。ホイアン市の象徴的な建築物であることから、1990年に国の歴史的・文化的名跡に指定されました。
この写真は、2003年にベトナム写真家協会の写真家チュオン・コン・アンにより撮影されたものです。
この写真は、2003年にベトナム写真家協会の写真家チュオン・コン・アンにより撮影されたものです。
ホイアン遺跡管理保存センター
6 ホイアンから出土した銅銭
これらの銅銭は、17世紀頃の日本の商人が使用していたと思われるものです。ホイアン歴史地区の多くの場所から、当時日本の商人がこの地で活動していたことを示す証として、日本製の陶器など様々な出土遺物とともに発掘されています。銅銭はそれぞれ直径25ミリ、重さは3グラムで、中心には5.5ミリ角の穴があけられており、表面には「元豐通寶」「元祐通寶」などと書かれていることから、北宋銭であることがわかります。これら北宋銭は、日本国内の中・近世都市遺跡からも、しばしば発掘されています。
これら出土品はホイアン博物館に展示されています。写真は、1997年以降、ホイアン遺跡管理保存センターが所蔵しているものです。
これら出土品はホイアン博物館に展示されています。写真は、1997年以降、ホイアン遺跡管理保存センターが所蔵しているものです。
ホイアン遺跡管理保存センター
7 阮朝木版 (H28/6)
阮朝の木版は、ベトナム国家記録アーカイブズ局が所蔵するとりわけ貴重な資料のひとつです。木版には阮朝期の公的な文芸作品や歴史を記した木版とは別に、ハノイに所在するベトナム最古の大学、文廟(Văn Miếu)が収集した古典籍・歴史書の木版も含まれており、これらは第2代明命帝(1820~1840)と第3代紹治帝(1841~1847)の時代に、フエの国子監(明代に設置されたベトナムの近代以前の最高学府)に移されました。
木版は、関連する文献資料の研究、比較、評価を助け、また外交を含む様々な領域の研究を促進するための信頼すべき歴史的資料です。
日越関係については、『大南寔録前編』第5巻22ページに、日本の貿易船が1679年、ザーディンやビエンホアで商業活動を行っていたことが記されています。すなわち、「ズオン・ガン・ディック(楊彦迪)とホアン・ティエン(黄進)(明王朝の滅亡により広南国に逃れてきた中国の軍人。楊彦迪は台湾に拠点をおき反清復明を掲げた鄭成功の部下とされる)の兵船が、ロイラップ川の河口(現在のザーディン省)から入ってバンラン集落(現在のビエンホア省)に到達した。彼らは荒地を開墾し、清朝や西洋諸国、日本やジャワ島からの貿易船が群れ集まる港町を建設した」とあります。この記述は、徳川幕府が鎖国政策を採用(1639)した後にも、「日本船」を名乗る商船がこの地を訪れていたことを示唆するものです。
木版は、関連する文献資料の研究、比較、評価を助け、また外交を含む様々な領域の研究を促進するための信頼すべき歴史的資料です。
日越関係については、『大南寔録前編』第5巻22ページに、日本の貿易船が1679年、ザーディンやビエンホアで商業活動を行っていたことが記されています。すなわち、「ズオン・ガン・ディック(楊彦迪)とホアン・ティエン(黄進)(明王朝の滅亡により広南国に逃れてきた中国の軍人。楊彦迪は台湾に拠点をおき反清復明を掲げた鄭成功の部下とされる)の兵船が、ロイラップ川の河口(現在のザーディン省)から入ってバンラン集落(現在のビエンホア省)に到達した。彼らは荒地を開墾し、清朝や西洋諸国、日本やジャワ島からの貿易船が群れ集まる港町を建設した」とあります。この記述は、徳川幕府が鎖国政策を採用(1639)した後にも、「日本船」を名乗る商船がこの地を訪れていたことを示唆するものです。
ホイアン遺跡管理保存センター
H28/6
8 ホイアンの中国人町(明郷)の土地登録証(抜粋)
紹介する資料は、紹治帝1年(1841)に設立されたホイアンの明郷(中国人村落)の土地登録証からの抜粋です。ここには、日本人と思われる「泉屋氏適」が所有する土地の所在地と大きさが記されています。明郷はホイアンで商業活動に従事する中国人により形成された村落です。現在、クアンナム省ホイアン市ミンアン区に所在します。
ここで紹介する資料は、ホイアン遺跡保存センターによって1997年に収集され、保存されています。
ここで紹介する資料は、ホイアン遺跡保存センターによって1997年に収集され、保存されています。
ホイアン遺跡管理保存センター
漂流者たち
18世紀後半、日本人が安南国(ベトナム)へ漂流した事件が3件、立て続けに起こります。これらの事件は、徳川幕府の鎖国政策により海外の情報がほとんどなかった時代、知識人によって書物の形に記録され、当時のベトナムの様子を今に伝えています。記録からは、清国で18世紀中頃に確立していたとされる漂流民送還制度とそれを実際に担っていたと見られる中国人商人たちの姿、そして安南国王による漂流民保護の様子などがうかがわれます。一方、日本側でも、ベトナムからやってきた漂流民たちを、無事本国に送り返しました。日本とベトナム双方の漂流者たちによる証言から、当時の東/東南アジア世界に広がっていた制度的仕組みやネットワークの有様が浮かびあがります。
1 阮朝硃本: 「漂流の報告」(嘉隆帝第3巻)
阮朝硃本(Châu bản)は阮朝期の1802年から1945年に作成された、皇帝の自筆署名のある公的な行政記録です。
もともとはベトナムにおける内閣の書庫に保存されていましたが、1961年にダラットに移されるまでは、フエ大学で管理されていました。1978年以降、ベトナム首相官房アーカイブズ局(現在のベトナム国家記録アーカイブズ局)が、保存することとなりました。硃本資料はUNESCO「世界の記憶」プログラムにおいて、2014年にはアジア太平洋地域登録、2017年には国際登録されました。
ここに紹介する資料は、阮朝硃本に記されている記録のひとつです。日付は嘉隆帝16年(1817)12月10日(旧暦)で、5人の兵士がザーディンから帝都・フエに向かう途中、日本に漂流したことが、北部地域に派遣されていた代官レ・トン・チャットにより報告されています。
報告によると、兵士たちは1815年半ばごろにザーディンを出発しましたが、ほどなくして日本に漂着しました。日本のどこにたどり着いたのか正確な場所は不詳ですが、地元の役人や住民に助けられました。その援助により、1817年、中国経由で鎮南関(中国とベトナムの国境ゲート、現在は友誼関と呼ばれている)を通って帰還することができたということです。
もともとはベトナムにおける内閣の書庫に保存されていましたが、1961年にダラットに移されるまでは、フエ大学で管理されていました。1978年以降、ベトナム首相官房アーカイブズ局(現在のベトナム国家記録アーカイブズ局)が、保存することとなりました。硃本資料はUNESCO「世界の記憶」プログラムにおいて、2014年にはアジア太平洋地域登録、2017年には国際登録されました。
ここに紹介する資料は、阮朝硃本に記されている記録のひとつです。日付は嘉隆帝16年(1817)12月10日(旧暦)で、5人の兵士がザーディンから帝都・フエに向かう途中、日本に漂流したことが、北部地域に派遣されていた代官レ・トン・チャットにより報告されています。
報告によると、兵士たちは1815年半ばごろにザーディンを出発しましたが、ほどなくして日本に漂着しました。日本のどこにたどり着いたのか正確な場所は不詳ですが、地元の役人や住民に助けられました。その援助により、1817年、中国経由で鎮南関(中国とベトナムの国境ゲート、現在は友誼関と呼ばれている)を通って帰還することができたということです。
国立第1アーカイブズ・センター
GL03/215
2 安南国漂流記
明和4年(1767)、地理学者・長久保赤水(1717~1801)が漂流民から聞き取った内容をまとめたものです。ここに紹介する資料は、文化7年(1810)以降に、昌平坂学問所が地誌・紀行等を収集する過程で納本された写本が、その後内閣文庫に入ったものと考えられます。
本書には、明和2年(1765)に銚子から帰途につく際に漂流した常陸国多賀郡磯原村(現在の茨城県北茨城市)の姫宮丸と、翌3年に同じく銚子から戻る際に漂流した奥州小名浜(現福島県いわき市)の住吉丸の乗組員が、それぞれベトナムに漂着し、ホイアンで出会い、日本に帰国するまでが描かれています。中部ベトナム地域にたどりついた後、現地の住民と漢字を解して意思の疎通をはかったこと、帰国を目指してかつて日本人町があったホイアンに向かったこと、日本語を話す二人の中国人商人に出会い、そのうちの一人の厚意で南京船に乗って帰国したことなどが記されています。
本書には、明和2年(1765)に銚子から帰途につく際に漂流した常陸国多賀郡磯原村(現在の茨城県北茨城市)の姫宮丸と、翌3年に同じく銚子から戻る際に漂流した奥州小名浜(現福島県いわき市)の住吉丸の乗組員が、それぞれベトナムに漂着し、ホイアンで出会い、日本に帰国するまでが描かれています。中部ベトナム地域にたどりついた後、現地の住民と漢字を解して意思の疎通をはかったこと、帰国を目指してかつて日本人町があったホイアンに向かったこと、日本語を話す二人の中国人商人に出会い、そのうちの一人の厚意で南京船に乗って帰国したことなどが記されています。
国立公文書館
185-0168
3 南漂記
奥州名取郡閖上村(現在の宮城県名取市)の大乗丸乗組員が、遭難後安南へ漂着し、翌年帰国した事件を聞きとったもので、柳枝軒静之(生没年不詳)の著。寛政10年(1798)に刊行されましたが、外国に関わる内容であったことから、乗組員の実名を伏せ小説仕立てで記載されたものの、翌年発禁となっています。蔵書印からは、木村兼葭堂(1736~1802)に旧蔵されていた写本が、明治13年(1880)内務省図書局に購入され、その後内閣文庫に入ったことがうかがえます。
本書には、寛政6年(1794)9月、3か月の漂流を経てベトナム南部に漂着した乗組員が、「王城」に連行された後、安南国の「国王」に謁見し、国王から5貫文の銭と白米2俵を賜ったことが記されています。ここでいう「国王」とは広南阮氏の末裔にあたる阮福暎(1762~1820)を指し、当時は嘉定(後のサイゴン、今日のホーチミン市)の「王城」に拠点を置いていました。彼はその後ベトナム全土を平定し、1802年フエに首都を置く阮朝の初代皇帝・嘉隆帝として即位しています。大乗丸の乗組員は、その後、マカオ船で広東に到着、そこからは清国の官吏によって乍浦(浙江省)を経て長崎に送還されています。「南漂記」は、漂流から帰国までの経緯だけでなく、滞在した安南、清各地の地理・風俗・産物や言葉などを項目に分けて詳細に記しています。
本書には、寛政6年(1794)9月、3か月の漂流を経てベトナム南部に漂着した乗組員が、「王城」に連行された後、安南国の「国王」に謁見し、国王から5貫文の銭と白米2俵を賜ったことが記されています。ここでいう「国王」とは広南阮氏の末裔にあたる阮福暎(1762~1820)を指し、当時は嘉定(後のサイゴン、今日のホーチミン市)の「王城」に拠点を置いていました。彼はその後ベトナム全土を平定し、1802年フエに首都を置く阮朝の初代皇帝・嘉隆帝として即位しています。大乗丸の乗組員は、その後、マカオ船で広東に到着、そこからは清国の官吏によって乍浦(浙江省)を経て長崎に送還されています。「南漂記」は、漂流から帰国までの経緯だけでなく、滞在した安南、清各地の地理・風俗・産物や言葉などを項目に分けて詳細に記しています。
国立公文書館
185-0141
4 安南紀略藁
長崎奉行所の役人だった近藤重蔵(1771~1829)が、寛政8年(1796)に完成させた、安南の歴史・風俗・言語・地誌などに関する書物。2巻3冊。重蔵は文化5年(1808)から11年間、江戸城紅葉山文庫の書物奉行も務めており、生涯に1500巻に及ぶ著作を残した地理学者、書誌学者として知られています。ここに紹介する資料は、『外国紀聞』の冒頭に収められた写本の一部です。昌平坂学問所が地誌・紀行等を収集する過程で納本されたたもので、その後内閣文庫に保管されました。
「南漂記」に見られる奥州名取郡の大乗丸の乗組員らの漂流記は、本書でも詳細に採録されています。ここで紹介するのは、漂流民の一人、源三郎が滞在先で目撃した様々な事物を回想した部分です。彼が「頗る絵事を解す」ることを知った役人が、特に命じて描かせました。漂着した「西山」の地や漂流した乗組員たちが乗せられた船、「国王」阮福暎(嘉隆帝)の城などが、様々に記録されています。
「南漂記」に見られる奥州名取郡の大乗丸の乗組員らの漂流記は、本書でも詳細に採録されています。ここで紹介するのは、漂流民の一人、源三郎が滞在先で目撃した様々な事物を回想した部分です。彼が「頗る絵事を解す」ることを知った役人が、特に命じて描かせました。漂着した「西山」の地や漂流した乗組員たちが乗せられた船、「国王」阮福暎(嘉隆帝)の城などが、様々に記録されています。
国立公文書館
184-0267(『外国紀聞』所収)