15 空襲と防空

 戦時下日本の空襲被害は、215都市に及び、主要都市は壊滅的打撃を受けました。空襲は昭和20年(1945)頃から激しさを増しましたが、空襲については激化する以前から本土空襲を想定し、軍や政府により防空対策が講じられていました。一般的に「防空」には、航空隊や高射砲隊などにより軍隊が防空にあたる「軍防空」と、敵機が襲ってきたために生じる被害を防ぎ、その被害を少なくするために人々が行う「民防空(国民防空)」とに分けられますが、ここでは民防空に関する資料を取り上げます。
 昭和12年、空襲による被害を軽減する目的で、防空演習、灯火管制や消防の実施などの民間における防空の実施や、道府県における防空計画の立案に関する事項を定めた防空法が公布され、同年10月から施行されました。その後同法は昭和18年に改正され、分散疎開そかいや非常用物資の配給、応急消火義務などが加えられました。
 また、戦局の長期化が予想されるようになった昭和18年には、「都市疎開実施要綱」が決定され、空襲被害防止のため、東京都区部・横浜市・川崎市・大阪市・神戸市などにおいて建物や人員の疎開も行われるようになりました。特に建物疎開は、空襲による火災発生時に重要施設への延焼を防ぐ目的の防火地帯を設けるために防火地帯にかかる建物を強制的に撤去したもので、東京や京都、広島などで約60万戸が実施されました。建物疎開に指定された場所は、戦後、道路や公園などとして利用されるなど、その後の復興事業や都市計画にも影響を与えました。資料は、昭和18年12月21日に都市疎開実施要網が閣議決定された際の文書です。

関連リンク
都市疎開実施要網ニ関スル件ヲ定ム
請求番号:類02789100
写真をクリックすると拡大画像が表示されます
ページのトップへ戻る