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宮崎成身、通称は次郎大夫。号は百拙斎、栗軒。屋敷が牛込門に近かったことから牛門老人とも号した。天保12年(1841)8月に家督を継ぐ。弘化4年(1847)12月に西丸小性組から小十人頭に転じ、安政4年(1857)7月に持弓頭に。翌5年9月22日に老衰と病身を理由に致仕(引退)。この間、『朝野旧聞裒稿』『大狩盛典』『通航一覧』等の幕府の編纂事業に参加し、また公務の間に『教令類纂』『憲法類集』などの幕府の法令集を編集した。
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