近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)(1771-1829)
近藤重蔵、名は守重(重蔵は通称)、正斎の号でも知られる。寛政元年(1789)12月に先手与力見習となったのち、同2年7月、20歳で家督を相続し、先手与力に。同6年(1794)2月、学問吟味で優秀な成績を収め褒賞を受ける。同7年(1795)6月に長崎奉行手附出役となり、長崎在勤。同9年(1797)12月、支配勘定に転じ、関東郡代附出役に。この年、蝦夷地に出張し、同地の取締りにつき建言。寛政11年(1799)3月、勘定役に。この年から文化4年(1807)まで4回にわたって蝦夷地に赴き(計5回)、樺太や千島列島を探索(この間享和3年(1803)12月に御目見以上となる)。文化5年(1808)2月、38歳で、紅葉山文庫(将軍の図書館であると同時に幕府の貴重書庫を兼ねた施設)の蔵書を管理する書物奉行となる。文政2年(1819)2月、大坂弓奉行に転じるが、不遜の行為ありとして、同4年4月小普請入差控を命じられる。文政9年(1826)10月、長男富蔵が殺傷事件を起こし、家は改易(領地・家禄、屋敷を没収し士籍剥奪)。重蔵は近江国大溝藩主分部家にお預けに。同12年(1829)6月、没。59歳。