「戊辰150年」における福島県歴史資料館の取り組み―収蔵資料展「村人たちの戊辰戦争」を中心に―

福島県歴史資料館
山田 英明

1「戊辰150年」と福島県

村人たちの戊辰戦争展

村人たちの戊辰戦争展

   全国的に「明治150年」に湧く本年であるが、ここ福島県では「戊辰150年」という呼び方が一般的である。その背景には、明治維新に対する県民の複雑な感情が存在していることを容易に想像いただけよう。
 聞くところによると、県内の書店では会津藩や反薩長の立場から記された関連図書がよく売れているという。このことは、多くの人々が、新政府に対抗した側の名誉回復が不十分であると感じていることをうかがわせる。「戊辰150年」という表現には、明治維新を無条件に顕彰しようという風潮への反発とともに、「なぜ、会津藩や東北諸藩は、朝敵とされなければならなかったのか?」という戊辰戦争以来の心情が込められているのである。
 さて、すでに県内では昨年より、会津藩の孝明天皇への忠節や県内諸藩の勇敢な戦いぶりなどを称える報道や催しがなされ、好評を博している。こうした試みは、県民の関心に応えるという点において意義深いものであるが、「戊辰150年」にあたって、改めて戊辰戦争を地域の歴史として考えようとする上ではいささか問題があると言わざるをえない。
 たとえば、会津藩や県内諸藩の「優れた」点を紹介することは、「汚名」を雪ぐ上で重要ではあるものの、結局のところ、勝者(官軍)と敗者(賊軍)という旧来の枠組を部分的に修正したにすぎない。「明治100年」以降、全国で歴史資料の公開が進み、戊辰戦争の様々な側面が明らかになっているなかで、これまでの戊辰戦争像(ひいては明治維新像)に対し強い違和感を表明し続けてきた福島県における取り組みとしては、あまりにも寂しすぎるであろう。
 戊辰戦争では本県域の各地で激しい戦闘が繰り広げられ、多くの兵士たちが命を失ったことはよく知られている。しかし、当時の福島県域には、戦争に参加した兵士以外にも様々な人々が生活していたことを忘れてはならない。彼らは、戦争が始まる前からこの地に住み、戦争中も、そして戦争後もそこで生活を続けている。地域の歴史の主役が住民であるとすれば、まさに彼らこそ福島県における戊辰戦争の当事者なのであるが、その存在は「なぜ、会津藩や東北諸藩は、朝敵とされなければならなかったのか?」という問題意識のもとでは、ほとんど注目されることがなかった。いわば、住民不在の戊辰戦争像が、福島県では長らく語り継がれてきたのである。

2 収蔵資料展「村人たちの戊辰戦争」

戊辰年官軍ヘ人夫ニ属シ戦場ニ斃候者書上」、明治・大正期の福島県庁文書1700所収

戊辰年官軍ヘ人夫ニ属シ戦場ニ斃候者書上」、明治・大正期の福島県庁文書1700所収

   収蔵資料展「村人たちの戊辰戦争」(平成30年4月21日~8月19日)は、このような問題点への当館なりの解答案である。具体的には、地域アーカイブズとして当館が収集してきた村々の古文書を手がかりに、戊辰戦争を主として村人たちの視点から捉え直し、地域の歴史として多面的に描き出すことを目指した。
 展示は、「戊辰戦争への途」、「戊辰前夜の村々」、「県内諸藩の戦い」、「戦時下の村々」、「戦後の村々」の5部よりなるが、ここでは紙幅の関係から第4部「戦時下の村々」を中心に内容を紹介することとしたい。
 戊辰戦争の勃発は、村人たちの生活に大きな影響を与えることとなった。新政府軍の最終的な目的が会津藩の追討である以上、戦局の推移によっては、自分たちの村々が戦場となることも予想されたからである。そのため、村の指導者たちは、様々な手段を用いて情報の収集にあたっている。
 たとえば、伊達郡東根下郷の村々(現・伊達市)を差配する立場にあった堀江家には、鳥羽・伏見の戦いの勃発を知らせる知人からの手紙(「書状」、堀江正樹家文書641)や『太政官日誌』(同759)、『中外新聞』(同1075)が残されており、様々な情報を比較し、混迷する情勢を読み解こうとしていたことが分かる。また、『中外新聞』については、ほぼ毎号に「堀江家」と書き込まれており、求めに応じて村内外で回覧をさせていたとも考えられる。
 一方、戦闘を行う諸藩兵が村人たちに求めたのは、物資や人夫の提供であった。たとえば、植田村(現・塙町)には、奥羽越列藩同盟軍へ食料を差し出した際の書き上げ(「棚倉御家中様賄帳」、吉成正大家文書20)や新政府軍による人夫徴発に関する帳面(「植田村人足人数覚」、同15)などがいくつも存在し、こうした行為が陣営を問わず頻繁に行なわれていたことをうかがわせる。とくに、人夫の不足により進軍に支障をきたしていた新政府軍にとって、福島県域(とくに白河周辺)の村々は人夫の供給地として重要な意味を持っていたはずだ。
 なお、このことについて附言しておかなければならないのは、徴発された人々のその後である。人夫は本来、物資の運搬を担当する非戦闘員であるが、戊辰戦争では戦闘に巻き込まれて死亡することも少なくなかった。戦後、新政府は人夫についても死亡者の調査をし、顕彰を行なっているが(「戊辰年官軍ヘ人夫ニ属シ戦場ニ斃候者書上」、明治・大正期の福島県庁文書1700所収)、徴発自体は会津藩・奥羽越列藩同盟軍でもなされていたはずであり、その全体像は定かではない。現在、激戦地の跡には、勇敢に戦った兵士たちを称える記念碑が建立されているが、本来祀られるべきは、こうした村人たちであろう。
 このように記すと、福島県域の村人たちは、戦争に一方的に巻き込まれた被害者であったように思われるかもしれない。しかし、実態はより複雑で、村人たちのなかには、率先して戦場に身を投じる者も存在した。その一例として、南会津地域の事例を紹介しておこう。
 この地域の村々は当時、会津藩の支配下にあったが、住民たちの多くは中世にこの地を治めていた地侍の末裔であった。そして、彼らの旧主の子孫が会津藩に登用されていることもあり、両者の間では依然として中世以来の君臣関係が維持されていたのである。

宮内藤太隊人数帳」河越卿家文書1‐61

宮内藤太隊人数帳」河越卿家文書1‐61

 村人たちはその誇りを胸に、平時より武芸に励み、街道や番所などの警備にも当たっており、有事の際には旧主である藩士の下で農兵として戦うことを誓っていた。実際に戦争が始まると桑原村(現・三島町)の人々は、旧主末裔の会津藩士・宮内藤太に率いられて出陣をしている(「宮内藤太隊人数帳」河越卿家文書1‐61)。ちなみに、『会津若松市史』などによれば、戊辰戦争における会津藩の総兵力は7,000人で、そのうち3,000人近くは農兵であったという。
 以上のように、戊辰戦争下の村人たちの動向は一様ではないが、いずれも戦争と無関係ではいられなかった。ある者は情報の収集に奔走し、またある者は物資の提供を迫られた。なかには、半ば強制的に人夫として戦場に連れ出される者もおり、逆に自らの意志で農兵となる者もいたのである。
 こうした点は、戊辰戦争の地域社会への影響を検討した他県の事例とも共通するが、半年近くにわたり激しい戦闘が繰り広げられた福島県域固有の問題として、戦争そのものが村人頼みの構造であったことは指摘しておかなければなるまい。攻め寄せる新政府軍は人夫としての村人がいなければ進軍もままならず、一方、守る会津藩でも兵力の半数近くを農兵に依存していた。ここ福島県域において、村人たちはまさに戊辰戦争の当事者にほかならなかったのである。

3「明治200年(戊辰200年?)」への課題

   以上、当館では「戊辰150年」という節目にあたり、これまで福島県内では取り上げられることの少なかった村人たちの視点から戊辰戦争の捉え直しを行った。その成否については観覧者に委ねたいが、少なくとも従来の「なぜ、会津藩や東北諸藩は、朝敵とされなければならなかったのか?」という問題意識のもとでは見落とされてきた側面があることは示せたのではないかと思う。
 このように、福島県における戊辰戦争の実態についてはいまだ不十分な点が多い。最後に、それらを思いつくままに挙げ、「明治200年(戊辰200年?)」に向けた課題として提示したい。
 まず一つ目は、県内諸藩についてである。彼らが会津藩救解のために奥羽越列藩同盟を結成したことはよく知られているが、それぞれの藩の思惑や行動についてはまだまだ不明な点が多い。とくに、「寝返った」とされる守山藩・三春藩・相馬中村藩については、地元でも研究をしづらい雰囲気がある。しかし、これらの諸藩こそ冷静に戦局を分析し、水面下で新政府と交渉を続けていたことを考えれば、その具体的な動向の解明は戊辰戦争を理解する上で必須の課題といえる。
 二つ目は、藩領以外や飛び地についてである。当時の福島県域には大小様々な藩領(飛び地を含む)に加え、旧幕府領や旗本領も存在していた。しかし、県民の注目は会津藩や二本松藩といった県内に居城を構える大藩の領地に集中し、それ以外への関心は薄い。しかし、会津藩や列藩同盟にとっては、藩領以外の地域や飛び地こそ防衛上の空白地となるため、優先的な制圧対象となったはずである。そうした地域における戊辰戦争への向き合い方は、県内諸藩の領地とはまた違った点があるのではなかろうか。
 三つ目は、村人以外の人々(具体的には、城下の町人や寺社)についてである。この点に関しては、たとえば相馬中村藩の商人である吉田屋源兵衛の日記の解読が地元の相馬郷土研究会の有志によって進められるなど、具体的な成果が出始めている。これらの取り組みをさらに進め、武士や村人、町人など様々な立場から見た戊辰戦争の姿を示していくことが期待される。
 もっとも、これらのすべてを当館単独で行なうことは不可能である。地域アーカイブズとしての特性を活かしながら、県下の博物館や資料館、研究者などと連携し、多面的な戊辰戦争像の掘り起こしを進めていきたい。