明治政府の政策方針である、富国強兵・殖産興業を背景に、文明開化を象徴する欧米の文物の流入がさかんになります。それらは、教育・ジャーナリズム・思想の分野にも影響していきます。特に、テレビもインターネットもないこの時代において、「日刊新聞」はジャーナリズムの主流となる存在でした。
このような日本の近代の象徴とも言える、明治期に刊行された新聞の多くが、東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫に所蔵されています。
その中の『絵入自由新聞』は、絵入自由新聞社から明治15年(1882)9月1日に創刊された自由党の新聞のひとつで、一般大衆向きに、かな付きの平易な文章と挿絵で世間の出来事を報道したものです。通常1日あたり4ページで構成されます。例として、明治16年(1883)7月21日(土)刊行の『絵入自由新聞』(第196号)を見てみましょう。
1ページ目の上部には、タイトルの『絵入自由新聞』の記載があり、ページの中程に、雑報があります。その最初に「岩倉前右大臣薨去(いわくらさきのうだいじんこうきょ)」とあり、岩倉具視(いわくら・ともみ)が亡くなったことを伝える記事があります。
2ページ目には、福島事件に関する高等法院傍聴筆記の記事、3ページ目には、連載小説「高峰の荒鷲(たかねのあらわし)」が掲載されています。2ページ目の中央には、福島事件の裁判の様子を描いた挿絵があります。
4ページ目には、当時の新聞広告があります。
ここで、明治22年(1889)2月11日の大日本帝国憲法の発布前後(2月5日~2月12日)の第一面の記事を追っていき、当時の憲法発布に対する社会の盛り上がりの様子を見ていきましょう。
5日の官報欄に、「宮内省告示」第四号の本文が記載され、憲法発布式の式次第や座席図が掲載されています。
6日の社説は、「憲法発布式日の特赦(とくしゃ)」の記事があります。
7日の社説は、「憲法発布祝賀の準備」の記事です。
8日の特別広告には、「来る十一日憲法発布に付、絵入自由新聞社の奮発」とあり、休刊予定の11日に号外を出すとあります。また、この日の社説は、「憲法発布に就て人民の感触」という記事です。
9日は、8日と同様に、号外の特別広告が掲載され、また、社説に「憲法発布日の注意」の記事があります。
憲法発布前日である10日の社説は、「憲法発布に騒ぎ立る訳柄」という記事です。
8日、9日の予告通り、憲法発布当日である11日、号外が刊行されました。書き出しは「憲法及び附属法」ではじまり、次の段から憲法の本文が掲載されています。なお、号外は裏表で1枚です。
また、号外の裏面の最後には、「雑報」として、「森文部大臣害に逢う」の記事も掲載されています。
憲法発布翌日の12日には、通常の紙面レイアウトで、憲法発布についての勅語や憲法の本文が掲載されています。
この錦絵は、大日本帝国憲法発布を祝う人々の様子を描いたものです。中央の上部に式典の様子が描かれ、上部の左側から「四ッ谷区」「市ヶ谷区」「靖国神社」等の文字が見えます。街中に日本国旗が掲げられ、人々が練り歩いている様子がうかがえます。
明治新聞雑誌文庫の入口
画像提供:東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫
絵入自由新聞(明治16年7月21日)[請求番号等:N11-4-2-2]
絵入自由新聞(明治22年2月5日~2月12日)[請求番号等:N11-4-2-13]
憲法発布式祝祭図[請求番号等:26-23]
「1889年2月11日 大日本帝国憲法発布の日」をご覧いただきありがとうございました。
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