3.版籍奉還と廃藩置県

明治2年(1869)1月、毛利元徳(長州)、島津忠義(薩摩)、鍋島直大(肥前)、山内豊範(土佐)の各藩主は、「版籍奉還」(天皇へ版〈土地〉と籍〈人民〉を返還すること)を願い出、他藩主もそれに倣い同様の上表を差し出しました。これは、すべての土地と人民は天皇のものとする「王土王民」の考えに基づいたものでしたが、混乱もなく行われたのは、各藩主が、版籍を奉還しても政府から再交付されると考えていたためと言われています。同年6月以降、ほとんどの旧藩主は、旧藩の知藩事に任命されました。しかし、知藩事には、旧来の大名による領地支配とは違い、非世襲の地方行政官として、政府直轄地と同様の政策を行うことが求められました。

明治4年7月14日、知藩事に「廃藩置県」(はいはんちけん)の詔が下されました。政府は、薩摩、長州、土佐の三藩から御親兵を募り、反対勢力に対抗しうる軍事力を背景に、廃藩置県を実施しました。これにより藩は県と改められ、知藩事の代わりに県令が派遣されました。県は、当初藩をそのまま置き換えたため300以上設けられ、飛び地も多く存在したままでしたが、その後急速に統合が進められ、同年11月までに旧来の国と郡を単位とした72県に再編されました。

薩長土肥四藩主による上表

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  • 薩長土肥四藩主による上表1
  • 薩長土肥四藩主による上表2
  • 薩長土肥四藩主による上表3
  • 薩長土肥四藩主による上表4

小倉外十県被置西海道諸県被廃御布告伺

小倉外十県被置西海道諸県被廃御布告伺

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