20.明治の産業

明治初期の日本にとって、近代産業の育成は、文明開化と並ぶ重要な政策課題でした。政府は、「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」をスローガンに産業の育成による近代化をめざし、西欧の先進技術導入のため、官営模範工場の設立や専門技術等をもった外国人の雇用などを積極的に進めました。フランス人技師ブリューナを招聘し明治5年(1872)に操業した富岡製糸場も、こうした官営模範工場の一つです。明治3年、製糸場の建設用地を獲得した際の文書には、ブリューナが実地検分を行った結果、群馬県甘楽郡富岡町の陣屋跡と呼ばれた場所を選定した経緯が記されており、用地の図面が添付されています。

明治20年代後半には、急速な機械化の促進によって、日本は「産業革命」を迎えることとなりました。

紡績業・製糸業では、明治16年に操業を開始した大阪紡績会社を先駆けに、輸入機械を投入した大工場が次々と建設されました。国産の綿糸の生産量は、機械化によって飛躍的に増大し、日清戦争後には中国などへ輸出を始め、製糸業も欧米向けの輸出産業として急速に発展しました。一方、こうした中で、豊田佐吉(とよださきち)による動力織機の発明など、国内技術も向上しました。

鉱業では、政府により、北海道や九州などの炭田のほか、足尾銅山、釜石鉱山の開発が行われました。これらは、明治20年代に官営から民間へと払い下げられ、蒸気機関の導入と機械化により生産力を向上させました。

また鉄鋼業では、日清戦争の賠償金を財源の一つとして、明治34年(1901)に官営八幡製鉄所(福岡県)が操業しました。明治10年代には、釜石(岩手県)の田中製鉄所などで銑鉄(せんてつ)の生産が成功していましたが、銑鉄を錬鉄や鋼鉄に加工し圧延して製品に加工する技術は、八幡製鉄所の操業以後発展しました。八幡製鉄所は、ドイツ人技師を招聘して建設した溶鉱炉に、清国の大冶鉱山の鉄鉱石と筑豊地域の炭鉱などの石炭を使用し、徐々に生産量を伸ばしていきました。

一方、こうした産業の発展および人口の増加は、交通機関の発達をもたらしました。明治5年に品川・横浜間で仮運転を開始した鉄道は、明治22年に東京と神戸を結ぶ現在の東海道本線が全通しました。また、民営鉄道も、官営を上回って路線を拡大させ、明治30年代前半には現在の東北本線や山陽本線など国内の主要な幹線がほぼ完成しました。

東京・高崎間の鉄道は、日本初の私鉄である日本鉄道会社により敷設されました。同線は、まず明治16年に上野・熊谷間を開業し、翌年に高崎・前橋まで延長して、全通しました。明治14年に工部卿佐々木高行から太政大臣三条実美に提出された東京・高崎間の鉄道敷設計画図では、起点に「品川ステーション」が記載されています。当初の計画段階では、当時の主要輸出品目であった生糸や絹織物を、養蚕・製糸業の盛んな群馬県から貿易港の横浜まで運ぶため、上野ではなく品川を起点としていたことが分かります。

日本鉄道を含め17の民営鉄道会社は、明治39年、鉄道国有化法の公布により買収され、国有化されました。

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