15.教育勅語
明治政府は、明治5年(1872)の学制、明治12年の教育令の公布などにより近代教育制度の整備を進めていました。しかし、一方では、伝統的な道徳教育が軽視され、西洋崇拝の風潮が生まれているという危機感を持つ者も増えていました。
こうした風潮の中で、明治天皇の侍講であった元田永孚(もとだながざね)と法制局長官井上毅らが中心となり、「教育勅語」(きょういくちょくご)の起草が進められました。その内容は、教育の基本方針として、忠君愛国などの国民が守るべき道徳について、個人、社会、国家の面から取上げ、こうした皇祖皇宗以来の徳目を、天皇が臣民とともに今後も遵守・実践することを希望するというものでした。
教育勅語は、第一回帝国議会の開会を前にした明治23年10月30日、文部大臣芳川顕正に下賜されました。天皇自身のお言葉である「勅語」という形で発布されたため、通常の法令等とは違い、天皇の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されませんでした。
発布の翌日、芳川は勅語の謄本を全国の学校に領布すると発表し、式日などに生徒を集め勅語を奉読することを訓令しました。展示資料は、教育勅語の裁可書及び文部省原案と、同年12月文部省より報告された勅語発布直後の「地方一般ノ状況」です。