10.宮中儀式

今日でも行われている宮中行事の一つに、歌会始(うたかいはじめ)があります。歌会始の形式は、明治期には現在とほぼ同じ形式に整いました。明治天皇は、生涯で約9万首もの和歌をお詠みになられたことからも、いかに和歌に馴染まれていたかが窺えます。その御製(ぎょせい)は、『明治天皇御集』によって知ることができます。

歌会始は、明治以前からも行われていた正月の宮中儀式ですが、明治に入って、初めて歌会始が行われたのは、明治2年(1869)でした。明治以前では、詠進者(えいしんしゃ)の範囲が皇族・公卿に限定されていましたが、それが、まず武家にまで広げられ、明治3年には勅任官(ちょくにんかん)まで、明治5年には判任官(はんにんかん)以上までとなりました。さらに、明治7年に至っては、一般からの詠進も認められました。また、明治以前には、皇后は出御(しゅつぎょ)されなかったのですが、明治8年にはじめて出御されることとなりました。

「歌会始詠進懐紙」は、明治17年の久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)の御懐紙(ごかいし)です。明治以前では、正式な歌会で和歌を詠進する際には、3行と3字で記すのが基本的な形式でした。朝彦親王の御懐紙では、その伝統を踏まえていることがわかります。また、和歌は、あらかじめ決められた題によって詠進されましたが、これも、明治以前の伝統に則っています。

以上のように、歌会始はそれまでとは全く異なった制度ではなく、伝統を受け継ぎつつも、新しい制度を確立していったことが窺えます。正月の宮中の恒例儀式として講書始(こうしょはじめ)があります。天皇・皇后が国書・漢書・洋書に精通した学者などから御進講(ごしんこう)を受けられる儀式です。明治2年から行われました。また、当初は、天皇のみが出御される儀式でしたが、明治6年以降は皇后も臨御(りんぎょ)されました。「儀式祭典録」(ぎしきさいてんろく)は、明治11年の講書始の式図(しきず)です。

御進講は、小御所(こごしょ)で行われました。明治6年に皇城(皇居)が炎上したため、明治22年までは赤坂離宮(あかさかりきゅう)を仮御所とされ、御進講の場には小御所代・御学問所・謁見所(えっけんじょ)等を充てられました。

観桜会(かんおうかい)と観菊会(かんぎくかい)は、現在も行われている園遊会(えんゆうかい)の前身です。明治13年に観菊会が、次いで明治14年に観桜会が行われました。「観桜会録」は、観桜会の次第を記したものです。会場は吹上御苑(ふきあげぎょえん)で行われました。午後3時に、天皇・皇后が臨幸(りんこう)され、紅葉茶屋(もみじぢゃや)で休憩された後、参集した各員に御会釈(ごえしゃく)がありました。なお、観桜会の会場は、明治14年から15年までは吹上御苑で、明治16年から大正5年(1916)までが浜離宮(はまりきゅう)で行われ、大正6年からは新宿御苑(しんじゅくぎょえん)で行われました。観菊会については、昭和4年(1929)に新宿御苑に会場が変更するまでは、赤坂離宮で行われました。

明治天皇御集

明治天皇御集

歌会始詠進懐紙

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  • 歌会始詠進懐紙1
  • 歌会始詠進懐紙2

儀式祭典録

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  • 儀式祭典録2

観桜会録

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  • 観桜会録2
  • 観桜会録3
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