9.大日本帝国憲法の発布

明治14年(1881)の国会開設の勅諭の発布以後、政府内では伊藤博文を中心に憲法案の起草が進められました。伊藤は、ヨーロッパへ憲法調査に赴き、そこで君主権が強く議会の権限が弱いプロイセン憲法を学びました。帰国後伊藤は、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎等とプロイセン憲法に範をとって憲法案を起草しました。枢密院(すうみついん)での審議を経た後、明治22年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。

大日本帝国憲法には、上諭、天皇の御名御璽(ぎょめいぎょじ)、年月日のあと、内閣総理大臣黒田清隆を筆頭に、宮中席次の順に各大臣等の自筆による副署が記されています。この中には、特に勅語を賜り内閣に列した枢密院議長伊藤博文と、憲法発布式典当日、暴漢に襲われ死亡した文部大臣森有礼の署名も含まれています。

憲法では、統治権の総攬者として議会の召集、解散権、陸海軍の統帥権など様々な「大権」が天皇に与えられた一方、立憲君主制の考えに基づき、天皇の統治権は憲法によって一定の制限を受けることとされました。国民には、徴兵の義務が課せられると共に、法律の範囲内で、居住の移転や信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由などが認められました。また、帝国議会が設けられ、法律案・予算案の審議権(協賛権)が与えられるとともに、司法権を行政権から独立させ、三権分立を定めました。

大日本帝国憲法

  • 1
  • 2
  • 2
  • 2
  • 2
  • 大日本帝国憲法1
  • 大日本帝国憲法2
  • 大日本帝国憲法3
  • 大日本帝国憲法4
  • 大日本帝国憲法5
  • 前へ
  • ページ上部へ戻る
  • 次へ