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家康の病

 元和2年(1616)正月21日、家康は田中(静岡県藤枝市)に鷹狩のため出かけますが、その夜から急に体調を崩します。この家康の病は、京都の豪商で家康側近である茶屋四郎次郎の鯛料理が原因であるとの説が有名です。ほかに一風変わった説も。正月から諸国で流行していた躍(おどり)が家康の発病となにか関係があるのでは、という話がまことしやかにささやかれていたようです。
 家康は死期を悟り、4月2日に本多正純・南光坊天海(なんこうぼうてんかい)・以心崇伝(いしんすうでん)を召して、自らの死後の対応を指示しました。また、榊原清久(きよひさ、榊原康政の甥)を召して、自身の死後は久能山(くのうざん)に廟(びょう)を築き、久能山に詰めて神事も司るよう命じました。この遺言で、榊原清久家は代々「駿州久能山惣御門番」を務めることになります。

慶長年録(元和年録)(けいちょうねんろく・げんなねんろく) [請求番号: 163-0181]

 徳川氏を中心とした諸記録を年次順に記述した書

元寛日記(げんかんにっき) [請求番号: 163-0185]

 慶長20年(元和元年、1615)から寛永20年(1643)まで、日記体に編集された江戸幕府の記録

寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん) [請求番号: 特076-0001]

 寛永18年(1641)に江戸幕府が編纂した大名 ・旗本の系譜集