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千姫の輿入れ

 慶長8年(1603)2月12日、家康は征夷大将軍に任じられますが、その直後に秀吉の遺児である豊臣秀頼もまた、内大臣に補任(ぶにん)されました。武家では家康に次ぐ高い官職でした(家康は将軍任官の際に、内大臣から右大臣へ転任)。また当時、家康の将軍任官と同時に、秀頼への関白宣下が出されると武家や公家の間では語られていました。
 同年7月28日、11歳になった秀頼と、家康の孫で秀忠息女千姫(7歳)が婚礼を挙げました。 この日程は、千姫に連れ添って上洛した母であるお江(ごう)の方と秀頼の母淀殿が相談して決めたものと言われています。
 慶長10年(1605)4月16日、家康は秀忠へ将軍職を譲り、徳川家が将軍として政権を世襲することを天下に知らしめますが、秀忠任官の4日前、4月12日に秀頼は内大臣から右大臣へ転任します(秀忠は征夷大将軍に任じられるも、官位は正二位内大臣)。家康の後を追うように昇進していく豊臣秀頼。家康は、今度は秀頼と対峙していくことになります。

舜旧記(しゅんきゅうき) [請求番号: 165-0092]

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 神道家で神龍院の住持、豊国(とよくに)神社の社僧である梵舜(ぼんしゅん、1553 ~1632)の日記。資料には、「今日、大坂秀頼御祝言、江戸大納言御娘也」とあり、秀頼と千姫の祝言が挙げられたことが記されています。全50冊。