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秀吉への臣従

 天正14年(1586)、秀吉は家康の「成敗」を掲げつつも、家康を懐柔し、臣従化を図ろうとしてきました。同年1月には織田信雄(のぶかつ)が家康を訪れ、調停にあたっています。秀吉は5月に妹の旭姫(あさひひめ、朝日姫とも)を家康に輿入れさせ、さらに10月には旭姫を訪ねるという形で生母である大政所(おおまんどころ)も岡崎に送られてきます。こうした事態を受け、ついに家康は大坂城での秀吉との対面・臣従を決意します。
 家康を臣従させた秀吉は九州の島津氏を攻め、小田原北条氏を滅亡させ、全国統一を果たします。そして家康に対して天正18 年(1590)7月、関東(武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部)への転封を命じます。この時家康に同行し、江戸へ移り住んだ者たちの中に、摂津国佃村(大阪府大阪市)の漁民たちもいたと言われています。彼らは後に隅田川河口の干潟(ひがた)を拝領し、その地を佃島(つくだじま)と命名しました。

家忠日記(いえただにっき) [請求番号: 163-0062]

 徳川家家臣松平家忠(1555~1600)の日記

武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい) [請求番号: 特044-0002]

 幕臣木村高敦(きむらたかあつ)の著で、家康一代の事歴を記した書

三河物語(みかわものがたり) [請求番号: 169-0010]

 旗本大久保彦左衛門忠教(ただたか、1560~1639)著