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石川数正の出奔

 秀吉との和議が成立した翌天正13年(1585)になると、秀吉はさらに攻勢を強め、信雄・家康連合軍と通じていた大名等が次々と秀吉の軍門に降っていきます。さらに同年7月11日に秀吉は従一位関白となり、関白として政権を担うこととなります。
 同年9月には秀吉から新たな人質が要求され、家康は10月に諸将を集め評定を行い、新たな人質は出さないという結論を出します。しかし11月13日、家康重臣で当時岡崎城代を務めていた石川数正が出奔し、秀吉の許に身を寄せるという事件が起こります。徳川の重臣で軍制等にも通じていた数正の出奔は家康にとっては大きな痛手で、この出奔により、徳川の軍制を武田流に改めたと言われています。

当代記(とうだいき) [請求番号: 150-0049]

 戦国から江戸時代初頭の国内の政治や経済等の動きを詳細に記した書

駿河土産(するがみやげ) [請求番号: 159-0054]

 江戸時代の兵法家大道寺友山(だいどうじゆうざん)著