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小牧・長久手の戦い

 本能寺の変後、織田信長の後継者争いは、明智光秀を討った羽柴秀吉を中心に展開しました。秀吉は天正11年(1583)4月に、信長の三男信孝(のぶたか)を擁立していた柴田勝家を滅ぼし(賤ヶ岳の戦い)、信孝も秀吉と連携した兄信雄(のぶかつ)に攻められ、自刃に追い込まれました。信雄と秀吉の関係は当初は良好でしたが、次第に関係は悪化。信雄は秀吉へ対抗するため、父信長の同盟者であった家康に接近します。同12年3月6日、信雄は秀吉に通じていたという理由で自身の家老3名を殺害、秀吉に対する事実上の宣戦布告となりました。信雄・家康連合軍と秀吉軍の最初の戦いは、尾張国羽黒(愛知県犬山市)で行われ、家康方は勝利を収めました。その後、家康は3月28日に小牧山(愛知県小牧市)に陣を張り、秀吉は小牧山に近い楽田(がくでん、犬山市)に陣を構えました。信雄・家康連合軍は約1万7千人、秀吉軍は10万人(一説には6万人とも)という、圧倒的な戦力差でした。
 しかし、戦いの結果は家康方の大勝利。秀吉方は、死傷者1万人とも言われ、大敗を喫しました。その後も秀吉は家康に決戦を挑もうとし、しばらく両軍の睨み合いの状態が続きました。9月に入ると、和議ヘ向け秀吉方は信雄への工作を強め、11月、ついに信雄・家康は和議に応じます。家康は戦いには勝利したものの、和議においては信雄・家康両者から秀吉へ人質を差し出さす等、秀吉優位の和議でした。

多聞院日記抄(たもんいんにっきしょう) [請求番号: 163-0085]

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 奈良興福寺多聞院の僧英俊(えいしゅん)が書き継いだ日記の抄録。英俊は、小牧・長久手の戦いについて、「今分ハ家康勝ニ可成歟」と日記に記しています。全2冊。