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本能寺の変

家忠日記(いえただにっき) [請求番号: 163-0062]

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 徳川家家臣松平家忠(1555~1600)の日記。資料には、「酉刻、京都にて上様ニ明知日向守・小田七兵衛別心にて、御生かい候よし」とあり、明智光秀の謀反により、信長死去の報が到来したことが記されています。ちなみに、資料には光秀の他に「小田七兵衛」の名も首謀者として挙げられています。この「小田七兵衛」とは織田(津田)信澄(のぶずみ)を指し、信長の弟である信行(信勝)の子で、信長にとっては甥に当たります。信澄は光秀の娘婿であった事から、彼も本能寺の変に関与したと疑われていたようです。しかし、同書6月4日条では「七兵衛殿別心ハせつ也」とあって、信澄の「別心」(裏切り)は誤報であると記されており、本能寺の変には関与していない事が家康側へ伝えられていますが、結局、信澄は光秀の娘婿という立場からか、翌6月5日に織田信孝(のぶたか)・丹羽長秀により襲撃され、殺害されてしまいます。全7冊。