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本能寺の変

 天正10年(1582)、武田家の滅亡により、家康は信長から駿河一国を与えられ、三河・遠江・駿河の三国を領有することになりました。しかし、同年6月2日、京都本能寺で信長は明智光秀によって討たれます。当時家康は武田戦の戦勝を賀するため、安土城を訪れ、その後信長の勧めで上方を遊覧し、本能寺の変当時は和泉国堺にあり、そこで信長死去の報せを受けました。
 家康は、早急に岡崎城へ帰るため、伊賀経由での帰国を試みます。織田家中の長谷川秀一や豪商の茶屋四郎次郎、多羅尾光俊(たらおみつとし)や柘植清康(つげきよやす)ら甲賀や伊賀の者にも助けられ、6月4日には岡崎城へ到着しました。いわゆる家康の「伊賀越え」です。
 信長死去により、旧武田領の領有を巡り、家康は北条氏らとの抗争に入ります。戦線は謬着(こうちゃく)状態となりますが、同年10月、信長の子息である信雄・信孝兄弟の勧めで、両軍の和議が成立。家康は三河・遠江・駿河の三国に加え、甲斐・南信濃を手中とし、五国を領有する大大名へと成長しました。

家忠日記(いえただにっき) [請求番号: 163-0062]

 徳川家家臣松平家忠(1555~1600)の日記

続武家閑談(ぞくぶけかんだん) [請求番号: 170-0028]

 幕臣木村高敦(きむらたかあつ、1681~1742)著