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元服と婚姻

 天文24年(弘治元年・1555)、14歳となった竹千代は、今川義元の下で元服し、「松平次郎三郎元信」(もとのぶ)と名乗ります。義元の一字「元」を与えられました。これは改めて義元と主従関係が結ばれ、今川氏配下になったことを意昧しました。
 さらに弘治3年(1557、一説には弘治2年とも)には今川氏一門の関口親永(義広)の娘を娶ります。彼女は今川義元の姪にあたるとされ、のちに築山殿(つきやまどの、西光院、清池院)と称されました。この婚姻により、元信は、今川一門に準じる扱いに位置づけられました。またこの後、元信は元康(もとやす)と改名します。元康の祖父・清康(きよやす)の勇名を慕い、改名したと言われています 。

松平記(まつだいらき) [請求番号: 特042-0012]

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 徳川氏創業の事績を記した資料の一つ。天文4年(1535)~天正7年(1579)までを対象とし、家康の祖父松平清康の死から、築山殿および嫡男信康の死までを記しています。江戸時代前期の成立と言われていますが、作者は不詳です。資料には、竹千代(のちの徳川家康)が成人し、「元信」と名を改め、その後、今川義元の姪(のちの築山殿)を娶り、さらに「元康」と改名したことなどが記されています。全 1 冊。