明治21(1888)年2月、大隈は、外交手腕を期待され、外相に就任。領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、無条件の最恵国待遇の条文を盛り込んでいる不平等条約の改正に取り組みました。大隈は、国別交渉を進め、好意的であったアメリカ、ドイツ、ロシアと改正条約の調印に成功しました。しかしながら、大審院に外国人判事を置くことの是非等、その内容に対し、政府内外で強い反対論が起こり、さらに明治22(1889)年10月、閣議を終えて、外相官邸へ向かう途上、大隈は反対派の玄洋社社員来島恒喜の投じた爆弾で重傷を負い、右脚を切断しました。
このため、条約改正は失敗し、同月、黒田首相は辞職、大隈も同年12月に外相を辞職しました。